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特集記事

ルイスのキリスト教受容 その5

4.2友人たちと論理的考え

1919年、ルイスは大学の研究者を夢見て古典古代の言語と文学を学ぶために戦場からオックスフォードに戻った。ルイスの学業成績は卓越したものがあった。戦地から帰還して一年後の1920年に古典学で第一級賞、1922年には人文学において第一級賞を受賞した。しかしルイスが望む古典学のポストは用意されなかった。そこでルイスは英文学を学ぶためにもう一年オックスッフォドに留まる決意した。

 そこで出会う友人たちがルイスに多大な影響を与えた。その中の一人であるコグヒル(Nevill Henry Kendal Aylmer Coghill 1899-1980)はアングロ・アイリッシュ系プロテスタント紳士階級の子孫であった。ルイスは彼を次のように評している。

まもなく、クラスで一番頭の回転がはやく学問のできるこの男が、キリスト教徒であり、徹底した超自然論者であるのを知って衝撃を受けた。彼はわたしには好ましいと思われる性格をそなえていたが(わたしのほうがまだしも現代的であったので)、いささか古風に思えた。騎士道精神、名誉心、礼節、独立心、気品が漂っていたのである。(『喜び』, 279-280)

キリスト者であるコグヒルの教養の高さ、また、徳を備えた言動はルイスの人生論を脅かした[1]。一年後、ルイスはコグヒルとともに、英文学においても第一級賞を受賞した。

学位取得後の1924年に、一年間だけユニヴァシティ・コレッジで哲学を教えたあと、1925年5月にモードリン・コレッジのイギリス文学の特別研究員に選出され、英文学を教えることになった。晴れて念願の大学研究者になることができたのである。そこで、二人のキリスト者と友人になった。一人はカトリック教徒のJ. R. R.トルキーン(John Ronald Reuel Tolkien 1892-1973)である。特に、彼との北欧神話の神々と巨人について、三時間にわたる議論は神について熟考するよい機会となった。このことがきっかけとなり、1929年の夏学期に、不承不承ながらも無神論から有神論へ回心した。しかし、この回心は汎神論的であり、キリスト教を受容するまでには至らなかった。しかしこの議論がルイスのキリスト教再受容の一因になったことは事実である。なぜならルイスは後に1929年12月にアーサーに宛てた手紙の中で、この議論は、ルイスとトルキーンの作品に大きな影響を与えたと共に、ルイスのキリスト教再受容に関しても転換点の一つとなったと書いているからである[2]。また、この時期にルイスは友人との文通を通して、徹底的に宗教を理論的に考察している。主眼点は、どの宗教が真の宗教かということではなく、どこで宗教は成熟に達したか、ということだった。その結果、多々ある宗教の中でヒンズー教とキリスト教が優れた宗教であろうという結論に至った。しかし、ヒンズー教は最高位の僧侶がいる傍ら、聖堂売春などが行われていること、また、キリスト教と比較し歴史的根拠が薄いことの理由で失格となった。残ったキリスト教だけが優れた宗教ではないかと思うようになった。

もう一人はH.V.D.ダイソン(Henry Victor Dyson 1896-1975)である。トルキーンとも交友のあったダイソンは1930年にコグヒルによってルイスに紹介されたが、ルイスは一度会っただけで彼をとても気に入った。彼の批評活動と文学活動は哲学や宗教観、また、真実への愛に依拠していたからである[3]。さて、1931年9月19日、ルイスはトルキーンやダイソンと共に朝4時にまで及ぶ議論を交わした。その話し合いの中で、彼らはルイスが復活した神々の神話に心動かされていることを指摘した後、キリストの死と復活は真実の神話であり、異教の神話との大きな相違はそれが現実に起こったことであることを示した。ルイスのキリスト教再受容は秒読み段階に入ったのである。

[1] 前掲書、p.72。

[2] Colin Duriez, C. S. Lewis-A Biography of Friendship-, Lion book, 2013, p.103.

[3] ウォルター・フーパー、山形和美監訳『C.S.ルイス文学辞典案内』彩流社、1998、p.492-3。

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