聖書:フィリピの信徒への手紙第三章16節、20節
「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 しかし、わたしたちの本国(国籍)は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
16節に、「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべき」だとある。ここでもう一度、人の歩みは誰がどう決めるのかということを考えて見る必要がある。自分で決めるのではありません。神がお決めになる。だからといって特別な生活があるのではなくて、与えられた力に従って、与えられた道を唯感謝を持って、熱心に励んで生きなさいというだけのことなのです。与えられた生活をそのまま感謝を持って生きていくというのは、信仰のない生活には有り得ません。神の恵みが分からなければできないこと。恐れないで感謝を持って生きていく生活は、聖霊の御導きなしでは出来るものではありません。
20節に「わたしたちの本国は天にあり」とパウロは語ります。口語訳聖書では「 わたしたちの国籍は天にある」と訳されていました。ここには心からの自信と誇りをもって語っているパウロがいます。
「本国・国籍」と訳された言葉は、フィリピ書第一章27節では「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」における「生活を送る」という動詞形で使われていました。
この手紙の読者が住んでいた町フィリピは、ローマ帝国の植民地都市でありましたので、その町の住民の多くは、ローマの市民権を持っていました。ローマの市民権を持っているということがどういうことかは、当時のローマ世界に住んでいる人たちには、身にしみてよく分かったことでありましょう。そこから、天に本国・国籍を持つことの意味を、彼らは良く理解してに違いありません。真のキリスト者は、キリストと共に天に国籍・本国がある。
そして天に本国・国籍がある者としての生活態度を示している。
コリントの信徒への手紙第二第十二章9節に「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」とパウロは語っている。またコリントの信徒への手紙一第一章30節31節に「 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた。 31節に「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるため」とパウロはいつも思っていた。パウロにとって主イエスに関することであれば何でも誇ることでありました。従って、「わたしたちの国籍は天にあり」と言う時も、それはパウロにとって心から誇らしいことであり自信でありました。
それなら天というのはどこにあるのでしょうか。
コロサイの信徒への手紙第三章1節から4節、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」ここに天のことが明らかに現わされています。天とは、「キリストが神の右の座に着いておられる」ところ、簡単に申しますと、天とは、キリストが救い主でおられるところということ。「上にあるものを求めなさい。」というのは、天を求めよ、ということ。あなた方は、キリストと共に甦らされ、と言われている。天を求める第一の条件は、キリストと共に死に、キリストと共に甦らされることです。
コロサイの信徒への手紙第三章1節に「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」とある。だから、上にあるもの、天を求めることが出来る。キリストと共に甦ったというのは、キリストと共に死んで、キリストと共に甦ったということで、救われたということです。それなら、あなたがたは、救われたのだから天を仰ぐことが出来る、救われたのだから天を知ることが出来る、ということになる。
そうであれば、あなた方は救われて、初めて天に国籍を持ったものになった。国籍が天にあるというのは、救われている、ということ。天に本国があるということは、ちょうど植民地が本国を持っているようなことであるとすれば、天に本国・国籍がある者は、自分が人間として生きる命を天から受けることになる。キリストと共に死に、キリストと共に甦った、キリストに救われたということは、まさにそういうこと。信仰生活に於いてそれが実現された時、初めて、天に国籍を持つということが言えるのです。
コロサイの信徒への手紙第三章3節に「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」と書いてあります。天は、神の中に隠された生活である、ということ。キリストと共に神の内に隠されているとは、これほど確かなことはないはずです。従って次の4節に「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れる」のです。
今この御言葉を学んでいる私共の信仰生活は、本当に、天に根拠を持っているかどうか、パウロのように、誇りを持って我らの国籍は天にありと言えるかどうか。地上の富や名誉、快楽を、いつまでも横目でちらちらと見ていては救われません。天を見上げ、復活の喜びの中で生きることができる様に神が私共に信仰を与えて下さることを願うものであります。