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特集記事

ルイスのキリスト教受容 その3

3.キリスト教棄教

1911年、ルイスはシャルトルと呼ばれる予備学校に移った。転校してまもなく、教室に忘れられていた文芸雑誌を手に取り、何とはなしにめくっていたルイスは大きな衝撃を受けた。それは『ジークフリートと神々の黄昏』という題の本に載せられていた北欧神話に関する挿絵であった。それ以来、北欧神話に心惹かれ、ワイヴァーンで強制的に眠らされていた知的好奇心が目覚め、北欧神話の知識を嬉々として貪欲に吸収していった[1]。しかし、ルイスにとっての重大事は、この時期にキリスト教信仰を失ったことであろう。その出来事に少なからず影響を与えたのが寮母のカウイ(G. E. Cowie )である。ルイスは彼女を、今まで会った人の中で最も利他的な人の一人と絶賛し、その人格ゆえに多くの生徒から愛されていたと評している。しかし、彼女は、接神論、薔薇十字会の神秘思想や心霊術など、英米の神秘主義の伝統に苦しんでいた。その神秘主義がキリスト教棄教の引き金となった。ルイスは次のように語る。

C先生には私の信仰を打ち砕こうという気持ちは毛頭なかったが、譬えていえばC先生が燭台を持ってきた部屋にたまたま火薬が充満していたのである。(『喜び』, 83)

その「火薬」とは何だったのだろうか。その頃のルイスにとって、祈りが苦痛であったこと、親指の関節が生まれつきなく不自由したこと、母親の死、ワイヴァーンでの辛い経験、そして、父親の破産に対する謂れのないあからさまな恐れや、当時のイギリス人の冷酷さや世の中の残酷さに起因する厭世主義などが挙げられるだろう[2]。また、ラテンやギリシャの古典の影響により、異教の神が神話ならば、キリスト教の神も神話であるという考えを抱いていたことも、無神論者への「火薬」になったと考えられる[3]。皮肉にも、シャルトルで開花した知的活動も棄教への一因となったのである。無神論者になったルイスの興味はますます北欧神話へと移行した。この時期に、北欧神話がきっかけとなり生涯の友となるアーサー(Joseph Arthur Greeves 1895-1966)と出会っている。アーサーはプリマス兄弟団のキリスト者であった[4]。彼らは長年にわたり手紙を交換することになる。

1914年にルイスはシャルトルを離れ、グレート・ブックハムに向かった。父の恩師であったカークパトリック(Kirkpatrick William Thompson 1848-1921)に師事するためである。ノックと渾名され、無神論者であったカークパトリックは言語に優れ、合理主義者であった。彼の薫陶は、ルイスの無神論にさらに磨きをかけた[5]。現にこの時期に、兄ウォレンに変わり、腹心の友になっていたアーサーに当ててルイスは、「私はどの宗教も信じない」と自分の宗教信仰について打ち明けている[6]。しかし、ノックとの出会いは、ルイスのキリスト教信仰に関して必ずしもマイナスに作用しなかったと思われる。論理的思考に関するカークパトリックの厳しい教えは、ルイスのキリスト教再受容の一因となったと考えられるからである[7]。

[1] 柳生直行『お伽の国の神学』新教出版、1984、p.55。

[2] Colin Duriez, C. S. Lewis-A Biography of Friendship-, Lion book, 2013, p.23.

[3] Chad Walsh, C.S. Lewis: Apostle the Skeptics, WIPF and STOCK Publishers, 1949, pp.3-4.

[4] ウォルター・フーパー、山形和美監訳『C.S.ルイス文学辞典案内』彩流社、1998、p.474。

[5] Colin Duriez, C. S. Lewis-A Biography of Friendship-, Lion book, 2013, p.32.

[6] A.E.マクグラス『C.S.ルイスの生涯』教文館、2015、P.73。

[7] Chad Walsh, C.S. Lewis: Apostle the Skeptics, WIPF and STOCK Publishers, 1949, pp.4.

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