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特集記事

C.S.ルイスのクリスマス

 ルイスが所属していた英国国教会では詩篇110篇をクリスマス用に指定しています。まず、その箇所を見てみましょう。以下の通りです。

詩編110

ダビデの詩。賛歌。

1:わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」

2:主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。

3:あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。

4:主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」

5:主はあなたの右に立ち/怒りの日に諸王を撃たれる。

6:主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち/広大な地を屍で覆われる。

7:彼はその道にあって、大河から水を飲み/頭を高く上げる。

 この箇所を読んでどのように思われましたか。「えっ?この聖句がクリスマスに指定されているって?」と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。それらの人たちは、この聖句には平安と優しさに関わるものは何もないと思うのでしょう。なぜなら、これっぽっちもベツレヘムのうまやを偲ばせるものはないからです。この聖句は、元々、新王に献げる戴冠式の頌歌として、征服と帝国支配を予兆するものか、戦いの前夜の王に呼びかけて勝利を予告する詩であったように思われます。では、内容をもう一度見てみましょう。それは脅迫に満ちています。2節によると、王の権力の杖はエルサレムより進み出で敵のただ中で支配する、とあります。するとどうなるのでしょうか。6節を見ると、異国の王者らは傷つき、戦場は屍と打ち砕かれた頭蓋骨で覆われることになります。やはり、この詩篇は「平安と優しさ」ではなく「心せよ、主は来たらん」と言う意味合いが強いのでしょうか。

 では、この聖句がどのようにクリスマス、つまりイエス・キリストと結びつくのでしょうか。ルイスは二つのことが祈祷書より高い権威を持ってキリストと結び付けていると言います。まず、この詩篇の作者はダビデです。王であったダビデが主と呼んでいるのは誰でしょうか。それはイエス・キリストです。第二にメルキゼデクに言及している点です。メルキゼデクとは誰でしょうか。その名が最初に出てくるのは創世記14:18です。その聖句は以下の通りです。

「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。」

 まず、この聖句の背景を考えてみましょう。メルキゼデクとアブラハムが初めて出会ったのはアブラハムがケドルラオメルとそれに与した者たちを打ち倒したすぐ後です。疲れ果てていたアブラハムと、彼のしもべ達に、メルキゼデクはパンとぶどう酒を与えて友情を示ました。そしてメルキゼデクは神明を通してアブラハムを祝福し、アブラハムに勝利を与えた神を褒め称えました。

 しかし、このこととイエス・キリストとなんの関係があるのでしょうか。ルイスは、創世記14章に記されているメルキゼデクの急な登場と消失は不思議なところがあることに注目します。メルキゼデクに関する系図は聖書に記されていません。どこからともなく訪れ、「天地の主なる、いと高き神の名」において祝福を与え、全く姿を消すのです。このことは、メルキゼデクが、アブラハムの物語一般とは違う、この世とかけ離れた別の世界に住むという感じを与えます。そして創世記ある通り、彼は祭司であり、王でした。このことは、別世界から来る祭司、王という意味合いがあります。つまり、この世の祭司、王よりも優れている印象を与えるのです。それが、ヘブライ7:11の「アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。」また、14,15の「というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。 このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。」という聖句に表れるのです。

 これらのことから、メルキゼデクは尊厳なる、「霊性に充てる」人物であり、祭司アロンよりも古い祭司たる王としてキリストを指し示す者である、とルイスはいうのです。

 ではイエス・キリストはクリスマスを通して我々に何を望んでおられるのでしょうか。ナルニア国年代記物語『ライオンと魔女』からヒントを得ましょう。このお話は、ファンタジーです。しかし子供が読むものだと馬鹿にはできません。なぜなら、ルイスは、50歳になっても読みたいおとぎ話が本当に良いおとぎ話であると言うからです。その証拠に、日本を含め、諸外国の多くの学者がこのファンタジーを研究しているのです。

 さて、ナルニア国では冬なのにクリスマスがやってきません。それは、白い魔女が支配しているからです。四人兄弟の末っ子であるルーシィはひょんなことからそのナルニアに行ってしまいます。そこでタムナスという名前の人柄のすごくいいホーンと出会います。ホーンとは、上半身が人間で下半身が鹿の御伽の国の生き物です。そのタムナスさんからナルニアには冬がないと告げられます。ナルニアから帰ったルーシィは、今度は兄弟たちと一緒にナルニアに行くことになります。そこでビーバー夫妻に出会います。ビーバーさんから、タムナスさんは魔女に捕まって石にされてしまったことを知らされます。白い魔女はタムナスさんだけでなく自分の気に入らない者たちを石に変えていました。一番上の兄のピーターは、計略を巡らし、なんとか自力でタムナスさんを救い出そうと提案しますが、ビーバーさんは、「それは、だめですよ、アダムの息子さん。あなたがやってもうまく行きっこありません。けれども、もうあのアスランが動き出した。」と言います。アスランとは誰でしょうか。アスランは、あらゆるものを本来の姿にする力を持っています。イエス・キリストと言い換えてもいいかも知れません。しかしどのようにあらゆるものを本来の姿(多くの者たちを石から生きている状態へ、クリスマスがない状態からある状態へ)するのでしょうか。4兄弟の力を借り魔女軍団と戦うことによってです。

 アスランが動き始めた証拠としてサンタクロース(Father Christmas)が現れます。私たちの世界のサンタクロースは、とても滑稽でばかにご機嫌です。しかし、Father Christmasは喜ばしげな顔をして本当ににこにこしていると同時に厳かな気分にさせます。ルーシィは彼に会った時、厳かで静かな気持ちでないとわからない、喜びの深い慄きが体を駆け抜ける感じがしました。

 Father Christmasは皆にプレゼントを渡します。ビーバー奥さんには新しいミシン、ビーバーさんは新しい水門がつけられているダム、ピーターには盾と剣、スーザンには弓と矢、象牙でできた角笛、ルーシィにはダイヤモンドの瓶に入った薬酒と短剣です。ここで注目したいのは、それらのプレゼントはくだらないおもちゃではないことです。全て実用的なものでした。そしてアスランは誰が何をもらったかを知っていました。そしてそれらのプレゼントを正しく使うことを示唆します。その証拠に、アスランは戦いの後に、ピーターに向かって、「剣を拭え」と言います。また、他にも傷ついた者がいるのに、自分の兄弟に気を取られているルーシィに向かって「エドマンドにかまけて、さらに人を死なす気か」と言います。もちろん、戦いはアスランたちが勝ち、タムナスさんを含め、すべての者が元の姿に戻りアスランを称えます。

 ルイスがクリスマスに対する思いがここに現れていると思われます。あらゆるものを本来の姿にするイエスの誕生を祝うと同時に、我々に命というすばらしいプレゼントをくださった神に感謝するとともに、その使い方を今一度熟考するべき時ではないでしょうか。

 さて、このことと同様のことが『被告席に立つ神』にも書かれています。この本はルイスの神学的エッセイ集です。そこで、ルイスは架空の島ニアターブで行われるある習慣について述べますが、そのことが私たちにクリスマスについて考えさせます。それは、Xマスにカードを送る習慣です。それはすべての国民に義務づけられています。国民は一人も漏れがないように細心のチェックをします。そして、カードを買うのが一苦労です。カードを書いてそれを送ったら、この煩わしいことから解放されたと神に感謝します。Xマスの日に、カードを送った人からカードが送られてきているならそれでいいのですが、送っていない人から送られてきたらその人を呪います。なぜなら、もう一度カードを買いに行き、その人に送らなければならないからです。プレゼントの習慣もあります。彼らは少しも役に立たないものを送ります。ここの箇所を読んだ時、次のことを思い出しました。J.K.ロリングの『ハリーポッター』です。どの巻でもクリスマスが描かれていますが、主人公のハリーが育ての親であるダーズリー夫妻からもらうクリスマスプレゼントは「鼻紙一枚」、「使い古しの穴の空いた靴下一足」です。

 それとは対照的にアターブにはクリス・マスを祝う人もいます。それはニアターブの少数派です。その日は早起きして日の出前にある寺院に行き、そこで聖なる食事に与ります。ほとんどの寺院で、彼らは生まれたばかりの赤ん坊を美しい女の人が膝に乗せて、ある動物達や羊飼いたちがその子を賛美している像を掲げます。ある祭司は次のように言います。「クリス・マスに多くの人が楽しく過ごすのを嬉しく思うが、Xマスには何も楽しさなど残っていない。」

 では、これら架空の島での出来事は私たちにどのような意味があるのでしょうか。

 すべての友人どころか、すべての知人同士がプレゼントを交換しなければならないとか、少なくとも互いにカードを送らなければならないといった考えは、近年になってから小売商人が私たちに押し付けてきたものである、とルイスは言います。そしてそれらは、次のマイナス面があります。

 1:これは楽しみよりも苦痛を与えるもの。

 2:その大部分が不承不承でなされる。

 3:誰も自分で買わないものがプレゼントとして送られる。

 ルイスは、クリスマスを楽しく過ごすことは大賛成です。しかし、商業主義に踊らされた浮かれ騒ぎには眉をひそめます。他の人のことを思ってプレゼントも買っていません。私たちの価値は、鼻紙一枚でしょうか。使い古しの破れた靴下でしょうか。ルイスは、もっとクリスマスの意味を考え、キリストを賛美したほうがいいのではないかと提案するのです。


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