キリスト教弁証に関してのルイスの考え2
(2)ルイスのキリスト教弁証に対する敵
ルイスは「生一本のキリスト教」を旗印としてキリスト教弁証を行なったが、キリスト教界内において「生一本のキリスト教」に相反する考えを持つ者を見て取った。ルイスは彼らを批判対象と見なしたが、大別すると次の四つに分類することができると思われる。①自由主義的キリスト教、②モダニスト神学と聖書批評に従事するある種の人々、③ファンダメンタリスト、④的外れのキリスト教である[1]。以下にそれぞれ見ていく。
① 自由主義的キリスト教
前述のChristian Timesの編集者に宛てた手紙の中で、ルイスは教会内に見られるある種の自由主義者やモダニストを「生一本のキリスト教」に反する者として挙げているが(Collected Letters of C.S. Lewis III, 164)、彼らの考えを次のように言う。
わたしはその考え方を水割りのキリスト教と呼ぶ。それは、天には善なる神がいまし、万事めでたく何も言うことなし——こう言って、罪や地獄や悪魔や、それに救いといった関わる厄介な、恐ろしい教義はすべて素通りしてしまう考え方である。(『キリスト教の精髄』p.77)
罪、地獄、悪魔、購いなどの難解で恐ろしい教義を無視し、耳触りのよい教義だけを扱うことを、水で薄めたキリスト教(Christianity and water)と呼び批判する。彼らは民衆受けするキリスト教を提示しようとしていたことがここから見て取れる。また、1963年5月7日にケンブリッジ大学のルイスの研究室でなされた、キリスト教という主題においてものを書くことに関してのインタビュー中で、更に詳細に彼らについてルイスは語っている。今日の教会内でどのようなものが書かれるべきであるかとの問いに対するルイスの応答に注目したい。
宗教的伝統にいる作家たちによって出版されたものの多くが、恥さらしで実際人々を教会から遠ざけています。その責任は、福音書の真実を絶えず都合に合わせて削り取っていく自由主義の著者たちにあります。どうして、法衣を着ている時には前提としていることをすべて、出版物に現れる時には信じないと言えるのか、私には分かりません。(『被告席に立つ神』p.113)
宗教的な伝統の中にいる書き手が公刊している多くはスキャンダルであり、実際問題として、人々を教会から遠ざけてしまっていることや、時代に合わせることによって福音の真理を削り取っている様が窺える。このことは、当時の風潮と関係していると思われる。当時の英国は長期化した大戦に国民が疲弊し、社会変革や福祉の徹底を求めていた[2]。また、1956年の第二次中東戦争における失敗や、1950年後半から60年初頭にかけての世界各地の旧植民地の相次ぐ独立により、イギリス帝国が終焉へと向かっていた。国の威信や経済的信頼を失いかけていた時代であったと言えよう。そのような中、イギリス発祥のもので唯一気を吐いていたのは、ビートルズやミニ・スカートを始めとする、英国伝統に反した若者向けの音楽やファッションであった[3]。英国で、特に若者を中心として、伝統主義や重厚主義に人々が反対する傾向があり、その影響下に教会も巻き込まれていたのかもしれない。しかしルイスは毅然として時代に流されず、教会に巣食っていた自由主義神学を批判したのである。
② モダニスト神学と聖書批評に従事するある種の人々
この点に関して、ルイスはChristian Reflectionsで詳述しているが、要約すると以下の四つの点になろう。一点目は、彼らの聖書本文の読みの質の低さ(p.154)、二点目はキリストの真の行動、目的、教えに対する誤った理解(p.157)、三点目は奇跡の否定(p.158)、四点目は創世記を始めとする聖書に書かれている出来事を文字どおりに受け取らずいわば改造すべて比喩的、象徴的に常に解釈すること(p.158)である。
③ ファンダメンタリスト
ファンダメンタリズムは、第一次世界大戦後、ことに米国で起こったプロテスタントの運動で伝統的キリスト教の教義、特に聖書の字句的神聖性を尊重擁護しようとするものと定義できる[4]。これを敷衍すれば、ファンダメンタリズムとは、聖書が直接に神の霊感を受けたものであるという信仰に立脚し、聖書記者たちが書き記した言葉は神の啓示により示されたもので、一字一句正確に書き写したものであり、したがって、そのまま受け入れるべきであるという考え方である。これに対し、ルイスは聖書を一字一句神の霊感を受けたものとしてではなく、文学形式にふさわしく読むように、つまり、神の啓示による聖なる書物は文学であると主張する(『詩篇を考える』p.8)[5]。この見解はファンダメンタリスト批判に直結すると言えよう。
④ 的外れのキリスト教
ルイスは架空の、でっち上げた神を崇拝する者を非難する。
どこから見ても明らかにプライドによってむしばまれている人びとが、自分は神を信じていると言い、また自分は非常に宗教的な人間だと自認しているのは、いったいどういうわけなのか。そう人たちは自分の頭ででっち上げた神を拝んでいるにすぎない、とわたしは思う。彼らは、自分がこの空想の産物である神の前にあっては無に等しいことを、理屈では、認めている。だが、腹の中では、「神はわたしの言行を嘉し、わたしが普通の人たちよりよりもはるかに立派であることを認めておられる」と、いつも考えているのだ。(『キリスト教の精髄』p.196)
ルイスは傲慢さによって心が蝕まれている者たちが崇拝する神は自分がでっちあげた架空の神であると言う。彼らは神の前においてさえ、他より自分を高めようと絶えず心の中で企むのである。ルイスが彼らを批判する理由を以下に見たい。
キリストが、わたしについて宣教し、わたしの名によって悪霊を追い出してもなお、世の終わりに、「われなんじらを知らず」と言われるものたちがいるであろう、と語った時、彼の念頭にあったのはそういう人たちではなかったかとわたしは思う。いや、人ごとではない。われわれもいつこの死の落とし穴に落ち込むか分からないのである。だが、幸いなことにその危険性を験してみる方法がある。われわれの信仰生活がわれわれにこう感じさせたら——わたしは善良だ、とりわけ、だれだれさんよりも善良だ、と感じさせたら、それは神からではなく悪魔からきたものだと考えて、まず間違えない。(『キリスト教の精髄』p.196)
ここで注目すべき点はルイスの批判の根拠は聖書に根ざしているということであろう。天の父の意思を行わない者は、いくらイエスの名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行おうとも、イエスは不法を働く者と見なし否認する[6]。実際、律法遵守を旨としながら、尊大で、へつらいの言葉や目立つ場所を求めたパリサイ人たちは不法に満ちているとイエスは非難した。彼らは神に仕えているとは主張はしても、蛇と蝮の子孫、つまり悪魔からの者であり、滅びは免れないのである[7]。尊大な者は悪魔に由来するのであり、彼らは彼らが勝手に神であるとでっちあげたものを崇拝しているにすぎないとルイスは批判するのである。
ルイスが提示しようとしたキリスト教は、それぞれの教派の根底に共通して見られる教義を支持する伝統的なものであった。またルイスの批判対象を考えてみても、浮き草のごとく時代に流された思想に迎合するキリスト者や、聖書の教義を理解困難なもの、また、恐ろしいものという理由で素通りしてしまう者、聖書の言葉を頑なに文字通り受け取り、本質的な意味を汲み取ろうとしない者、傲慢ため神を見誤る者など、伝統的キリスト教とは極端に反した者たちであった。ルイスの提示したキリスト教は決して教派的なものではなく、聖書やキリスト教の伝統に根ざしたものなのである。
[1] 竹野一雄『キリスト教弁証家としてのC.S.ルイス(C.S. Lewis: 1898-1963)』聖学院大学総合研究所紀要(44)、2008、pp.205-224。
[2] 油井大三郎、古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論社、1998、p.210。
[3] 指昭博『図解 イギリスの歴史』河出書房新社、2002、p.145-148。
[4] 小林珍雄編『キリスト教百科辞典』エンデルレ書店、1960、p.1415。
[5] 竹野一雄『C.S.ルイスの世界 永遠の知恵と美』彩流社、1999、pp.67-68。
[6] 「マタイによる福音書」7章。
[7] 「マタイによる福音書」23章1-28節。