書評
次の書評は日本キリスト教文学会学会誌35号に掲載される予定のものである。クリスマスの起源について考える機会になれば幸いである。
嶺重淑著『クリスマスの原像』
本書は、関西学院大学で行われた講座である「新約聖書の世界——クリスマスの物語を読む」を基として、二〇一三年から二〇一五年の二年間に六回に渡って『キリスト教文化』(かんよう出版)に連載された「降誕物語を読む」を加筆、訂正したものである。内容は、一般に知られているクリスマス物語と、聖書に描かれるイエスの降誕物語の差異、さらには、マタイとルカの両福音書に記述されている降誕物語の相違点に着目し、両福音書の内容を正確に把握することにより、聖書に記されているイエスの降誕物語が現代の我々に何を伝えるのかを提示している。
本書は二つの章と結語から構成される。第一章はマタイの降誕物語と題し、四つの見出しと結びから成り立つ。第二章はルカの降誕物語と題し、六つの見出と結びから成り立つ。各見出しとも、筆者である嶺重氏がギリシヤ語から翻訳した聖句を載せ、それをさらに区分けすることにより、読者が見出し全体の鳥瞰図を描けるように配慮してある。最後に結語として、筆者が読み取ったマタイ、ルカの両者のイエスの降誕物語に込められているメッセージを伝える。
さて、本書を二つの側面から見てみたい。一つは、題名にある通りクリスマス物語の原像を辿ることである。一般に、イエス降誕に関する多くの泰西名画は、馬小屋で飼い葉桶に寝かされた幼子イエスを、ヨセフ、マリアと共に羊飼いたちが見守り、東方の三博士が贈り物を捧げている場面を描く。しかし、筆者は、そこにはマタイの降誕物語とルカのそれとの混在が見られるとともに、聖書の記述とは明らかに違う点が描かれているという。この点に関して、ある聖書学者は、ルカによる福音書が描く通りイエスの降誕物語を描いた画家はマティアス・グリューネヴァルトのみであると主張する。それだけ多くの者がキリスト者も含め、キリスト降誕物語に関しては揺らぎが見られるのであろう。では実際にはどこに何が記されているのだろうか。筆者は東方の占星術師の逸話はマタイのみに見られ、ルカにはそれが記されていないこと、それに対してルカに記されているのは飼い葉桶に寝かされた幼子イエスが、羊飼いたちやイエスの両親によって見守られる場面であり、これはマタイには記されていないことに注意を向ける。また、聖書には占星術師の人数や、イエスが生まれた場所であるとされる馬小屋は言及されていないことを挙げる。さらに、各章の結びで両福音書の中心主題について再び触れることは、混同されがちな降誕物語を、マタイにものはマタイに、ルカのものはルカに正確に帰するのに寄与する。
二つ目は、註解書として側面である。比較的平易に書かれているが、多くの参照聖句が載せられているため聖書研究の手引書としては勿論のこと、註解書としても十分足るものとなっている。ルカ二章一節にあるアウグストゥスの治世に関する考察を含め、ルカ文書を専門とする新約聖書学者である筆者のルカによる福音書の註解は卓越したものがあるが、ここではでマタイから一例をあげよう。マタイ一章一節から十七節にはイエスの系図が載せられている。この系図は「AがBをもうけ、BがCをもうけ」というように定型句が単調に並ぶ。筆者はこの定型句の逸脱が数カ所見られるとし、その中で特に四人の女性の名前が不規則に記されている点に注目する。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻である。彼女たちは旧約聖書で偉大なユダヤ人婦人像と目されているサラ、リベカ、ラケルとは異なり、異邦人出身であったり、遊女であったりいわゆる小さな者である。彼女たちが言及されている理由は何であろうか。U・ルツは「罪人説」「異邦人説」「不規則性説」の三つをあげ、神の救済行為は往々にして予期しない展開を見せるという意味の「不規則性説」を支持する。しかし、この説にも欠点があり、それを詳細に定義しようとすると困難に直面することを認める。筆者である嶺重氏もU・ルツ同様に「不規則性説」を支持する。しかし筆者はU・ルツが困難とした「不規則性説」を厳密化することに果敢に挑戦する。筆者は、彼女たち四人は悲しい運命を背負った時代の犠牲者であり、時の中で翻弄され、誰よりも苦しみ抜いたゆえ、社会的弱者の代表として捉えることはできないだろうか、そして、イエスこそがこれらの女性たちを照らし出す光であり、神の救いの業は狭いユダヤ民族の枠を超えて異邦人社会に広がっていくというメッセージが込められているのではないか、と私見を述べる。この私見は、マタイによる福音書の主題の一つである普遍主義とも一致するため一考に値するだろう。
トランプ氏のエルサレム首都宣言は、イスラエルはおろか世界を手中の収めようとする圧政者のような感が否めない。しかし、聖書にあるクリスマス物語はまずマタイに出てくる四人の女性のような小さな者に向けられたのであり、そのことを、本書から認識することは時宜にかなったことだろう。